出演していただいた市民の方々に、伊那市での暮らしを語っていただきました。
遠方から移住してきた方々や、伊那市に生まれ育つ方々、
一度郷土を離れ、帰ってきた方々など、さまざまな物語があります。

国内屈指のマウンテンバイクフィールドと
人々の温かさに魅せられて

名取 将さん 

「TRAIL CUTTER」代表
マウンテンバイクガイド・トレイルビルダー

 

行政のバックアップが移住の決め手に

MTB(マウンテンバイク)フィールドとしても名高い富士見パノラマスキー場の麓、長野県富士見町で育ち、2007年に伊那市長谷に移住して、MTBのためのトレイル(登山道、林道)開拓とツアーガイドを行っている名取将さん。かつては地元の富士見町でMTBのコース整備やガイドツアーをしていましたが、以前から長谷のMTBフィールドとしての可能性に気づいており、人の縁で伊那市の行政ともつながって、地域の人とのパイプ役を行政が務めてくれたことで移住を決意しました。
「もともと山と人との関わりが深かった長谷は、自転車遊びに適した昔の山道が豊富に残る国内有数の魅力的な場所でした。それに、MTBは人の土地を使わせていただくので、どうしても行政に絡んでもらわないと物事を進めるのが難しい遊びです。特に外の地域からアプローチをする場合には、行政の協力が得られるかが肝でしたね」
そうした思いにくわえ、地域の人々がもつ昔ながらのゆったりとした空気や、晴天率が高くて冬場に雪が少なく比較的温暖な点も移住のポイントでした。

移住後は地区の役員や消防団、南アルプス遭難対策協議会などの地域活動にも積極的に参加し、地域の伝統やルールを理解しながら人々に受入れてもらえるように努めたという名取さん。おかげで現在はすっかり地域の一員として長谷に溶け込み、トレイル開拓は長谷の山中だけでも40~50kmにおよんでいます。ガイドツアーはコアな首都圏のMTBライダーを中心に人気が高まって、ハイシーズンの秋は平日でも予約でいっぱいだそう。さらに最近は地域の理解も深まり、既存の古道の開拓だけでなく、新規のトレイルも開発しています。
「それでも地域にはまだ開拓していない道が100km以上ありますし、トレイルに完成はないんですよ」
そう話す名取さんの笑顔が、現在の生活の充実感とこれからの希望を物語っていました。

 

 

名取 将(なとりまさし)
長野県富士見町出身。TRAIL CUTTER 代表。1995 年から MTB に携わり、これまでに富士見パノラマやふもとっぱら キャンプ場、南乗鞍キャンプ場、ウィングヒルズ白鳥など各地の MTB コース造りに関わる。現在は、夏は MTB ガイドと トレイルビルダー、冬は木こりの生活をしつつ、「日本一の MTB フィールド・長谷」をめざし、地域を巻き込ながらトレイルを開拓中。
今後は地域での雇用の創出にも力を入れた いと考えている。

TRAIL CUTTER(トレイルカッター) 公式HP

蝶の乱舞に惹かれてたどり着いた
田舎暮らしと雑穀栽培

吉田 洋介さん
雑穀レストラン「野のもの」代表
雑穀栽培農家、「家具工房吉田屋」代表

 

移住成功の秘訣は「異文化を楽しむこと」

道の駅「南アルプスむら長谷」に併設の雑穀レストラン「野のもの」を営みながら、地域の人から借り受けた田畑で、キビ、アワ、タカキビ、アマランサス、シコクビエの5種類の雑穀を無農薬で栽培している吉田さん。家具職人でもある吉田さんは学生時代から自営業に憧れ、マスコミ業界を脱サラしたあと、出身地の奈良で家具作りを勉強。その後、長野県塩尻市の家具職人のもとで修業をしながら移住先を探すうちに、伊那市長谷にたどり着いたといいます。
「せっかく移住するならこれまでのツテがないところに行きたかったし、田舎のほうがおもしろいと思っていました。それに、この辺は車に乗れば東京も大阪も東北も1日で行けるので、実は便利がいいな、と。それで何となく周辺を探したなかでも長谷は一番の田舎でしたし、最初に訪れたときに沖縄のように蝶が乱舞していたんです。私は大学で昆虫学を専攻したし沖縄も好きなので、その辺も気に入りましたね」
道端に“幻の山菜”と聞いていた行者ニンニクが生えていたり、地域内に希少な日本ミツバチを飼育する人が数十人もいたことも吉田さんの興味をそそりました。そこで地域の食文化を残すNPO法人を設立。それが現在のレストラン経営や雑穀作りにつながっています。
「ここの住み心地はいいですよ。最初は隣近所が屋号で呼び合うことや地区の作業に全員参加であること、地区の役員が回ってくることなどが新鮮で、異文化に触れるおもしろさがありました。それを楽しむことが移住がうまくいくコツじゃないでしょうか」
移住に関しては、地域の世話好きの人を行政が紹介してくれたり、自宅を建てる際に補助金が活用できるなどのサポートもあったという吉田さん。ただ「行政に根掘り葉掘り聞いて過度な期待をしすぎてもよくない」とも言います。
最近では移住を考えている人の相談にも乗れるよう、Iターン同士のつながりがつくれたらおもしろいと考えているそう。まだまだ異文化の地で、吉田さんの挑戦は続いています。

吉田 洋介(よしだようすけ)
奈良県出身。通信社の記者を経て、奈良県の職業訓練校で家具製作を勉強。塩尻市の家具職人のもとで約1年の住み込み修業後、2000年に伊那市長谷へ移住し「家具工房吉田屋」を設立。2002年に食文化に関するNPO法人を設立し、2006年に雑穀レストラン「野のもの」をオープン。伊那市、信州大学農学部の協力のもと雑穀栽培も始め、現在は雑穀単体や加工品の出荷も行っている。また県内外で講演会や栽培講習会も開催。

野のもの 公式HP

人々のやさしさに触れながら
自由な雰囲気が漂う高遠で伝統を継承

浦野 真吾さん
高遠焼陶工・高遠焼白山登窯2代目

 

なじみやすい地域の人々の空気とのびのび暮らせる環境の魅力

二重掛けの釉薬によって素朴で繊細な味わいを生み出す伊那市高遠の「高遠焼」。現在、全国でも唯一の「高遠焼」の陶工として江戸時代からの伝統と最新技術を今に伝えるのが浦野真吾さんです。かつて衰退してしまった「高遠焼」を復興させた唐木米之助氏の孫として育った浦野さんは、以前は伊那市中心部の自宅から祖父宅でもある高遠の仕事場へと通勤していました。しかし子どもたちの将来的な進学を考慮し、いずれは引っ越そうと思っていた高遠に移住。以来、高遠が「仕事場」から「住居」になっています。 「以前は毎日高遠に通っていたものの、住むとなるとやはり同じ地区でも知らない人もいました。でも、ここの人たちは気軽に声をかけてくれたりと、地域のなかに入り込みやすい雰囲気があります。それに地域柄、都会に比べて集まる機会は多くなりますが、顔を出していると次第に地域の人の顔と名前が一致してきて、面倒見がいい人がわかってきたり、外で行き合うと声をかけ合うようになって、徐々に親しくなっていけましたね。引っ越す前は人付き合いが心配でしたが安心しました。だからこそ、これからこの地に移住する人には、毎回ではないにしろ少しでもそうした会合に顔を出しておくことをおすすめします」 そう話す浦野さんにとって、高遠は「自由な雰囲気で肩肘張らずに暮らせる場所」だそう。そんな空気感もあるためか、近年はこの地に移住し、古民家を改修して工房を構えるクラフト作家も増えているといいます。 「都会よりも場所が広く使え、近隣への騒音も気にせずのびのびと創作に打ち込める点も魅力なのではないでしょうか。それに、小さな子どもが自然のなかで広々と遊べる環境も気に入っています」 つくり手として、また父として高遠を見つめる浦野さん。そんな浦野さんにとって、ここは間違いなく住み心地がいい場所のようです。

浦野 真吾(うらのしんご)
長野県伊那市西春近出身。江戸時代から地域に伝わり、昭和中期に衰退した「高遠焼」を昭和50(1975)年に復興させた唐木米之助氏の孫として育ち、幼い頃から祖父の伝統技術を間近に触れていたことで高遠焼の陶工の道に。愛知県立瀬戸窯業高校陶芸専攻科を修了し、同県で修業を積んだのち地元に戻って祖父に師事。現在は白山窯2代目として、祖父が築いた市営の白山登り窯の代表も務める。

高遠焼白山登窯 公式HP

地域の人々と自然から
「伊那に生まれてよかった」と思える子を育てたい

向山 美絵子さん
「山荘ミルク」経営、伊那市キャリア教育担当

 

中高生へのキャリア教育を通じて、子どもたちの自信を創出

伊那市街地を見下ろす標高1000mの高台にある「山荘ミルク」。無農薬や有機栽培など安全な食材を提供し、結婚式やイベントなども開催していることからさまざまな人が集う空間です。かつて伊那市中心部にあった店がこの地に移ったのは25年前。近くには中央アルプスの伏流水が湧き、四季折々の花が咲く美しい場所です。
ここで夫とともに店を切り盛りしつつ、伊那に根ざして50年以上まちづくりや教育事業に携わってきたのが「子どもたちが伊那から巣立っても、自分の故郷を自慢できたり、ここに育ってよかったという意識をもって生きられることを考えてきた」と話す向山美絵子さん。
「子育て日本一と言われている伊那のよさは、変化に富んだ四季の自然があって、厳しい冬には蓄えが必要だと実感できるところ。こういうことを知って育った子どもは、人生に失敗しにくいのではないかな」
こう話す向山さんは「2つのアルプスのおかげで台風をはじめ災害が少なくて、隣近所からリンゴや野菜をもらうことはしょっちゅう。バスターミナルから新宿へのバスが頻発しているアクセスのよさもこの町の魅力」と言います。
「東京はたまに行くところ。暮らすなら伊那ですよ」
そんな向山さんが力を入れている活動のひとつが、伊那の中高生に向けた「キャリア教育」です。地域で働くさまざまな職業の人が生徒たちに生きざまを伝えることで、進路への迷いや社会に出ることに恐れを抱いている生徒の背中を押し「将来は伊那で働きたい」という思いを醸成しているのだそう。地域の企業とも連携し、生徒の就職をサポートする体制も整えています。
「私たちは『この町に生まれてよかった』と思える子どもを育てていかなければいけません。でも、伊那の人たちはまだ、この町の魅力に対し自覚が足りないのかも。自分の住んでいるところがいいと思えないと、子どもたちにも伝えられないからね。それは私たちの努力不足。もっと頑張らなきゃ」

向山 美絵子(むかいやまみえこ)
長野県松本市出身。14歳で伊那に移住。結婚後、伊那市手良地区から中心部に転居。夫とともに「バーボンハウス」を経営。その後、夫の趣味のパラグライダーの飛行適地を求めて、宮田村、駒ヶ根を経て現在の地に移転。以前はパラグライダー教室も開校。また、当時女性としては珍しい伊那青年会議所に32歳で入会。まちづくり、教育文化、青少年関係を担当。この経験が中高生のキャリア教育につながっている。現在、72歳。

「この環境で仕事ができてよかった」
そう思える地にたどり着いて

河原崎 貴さん
鍛造作家

 

人との関わりと積極的な物件探しで実った満足の制作環境

伊那市高遠の古民家に染織家の妻と工房を構え、暮らしに身近な鉄の道具を制作している河原崎貴さん。工房を開放して年に一度開催する作品展には、県内外から多くの来場者が訪れます。看板やホームページもない工房に人が訪れるのは、すべて口コミによる広がり。紹介が紹介をよび、受注も全国から相次いでいます。
そんな河原崎さんが伊那に移住したのは16年前。それまでは出身地の東京で流通関係のサラリーマンをしていましたが、30代半ばに妻が会社を辞めて新潟や島根の染織家のもとで修業を積むようになると、河原崎さんも次第に自営業としてのものづくりに惹かれるようになりました。そして、さまざまな作家を訪ねるうちに、島根で鍛冶屋に出会い、直感的に「おもしろい」と感じて鉄の仕事をめざすようになったのです。その後は東京の職業安定所で紹介を受けた伊那の職業技術専門校で溶接を学び、卒業後は伊那市長谷の鍛金アーティストのもとで1年間勤務。こうして2002年、妻とこの地で作家として独立しました。
「当初は見切り発車でしたが、思いの外、地域に馴染めましたね。人に恵まれたことが大きかったです。高遠の杖突街道界隈には多くのものづくり作家がいて、心強いのもありました」
現在の工房は数十件をも回って、納得のいく古民家に出合えたのだそう。
「いい物件を探すなら、行政や不動産屋を訪ねたほうがいいですよ。本当にいい情報はインターネットや表に出ていないこともあるんです」
そして、今は季節感を感じる制作環境が間接的によい影響を及ぼしていると言います。
「雪や福寿草を身近に感じたり、天気を読むようになって思考も変わりました。電車通勤で聴いていた音楽と、今聴く音楽は違いますから。結果的にちょうどいい年齢でいい環境を得られた今は、お客さんの期待に応えるプレッシャーはあってもストレスはない。この仕事をこの環境でやれてよかったと思っています」
そんな河原崎さんの言葉を反映するように、昨年はご両親も伊那に移住してきました。今や、伊那は河原崎さんにとって「第二の故郷」以上に「ホームグラウンド」になっています。

河原崎 貴(かわらざきたかし)
東京都出身。鍛造作家。東京の百貨店で流通関係の仕事を経て、2000年、伊那市職業技術専門校に入校。半年間、溶接を勉強後、伊那市長谷の鍛治工房で1年間勤務。2002年、妻とともに独立し、暮らしにまつわる道具の制作を開始。2005年に伊那市高遠にて自宅兼工房を構え、同年より年に1回、作品展「TETSURO」を1週間開催している。全国のギャラリー等に作品を設置し、作品展も各地で開催。最近では海外からも注文が入る。

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